「内在する器」

私は他者でできている。
これがこの作品の全てだ。

私は私と云う人間をあまりにも知らなすぎる。
内臓がどの位置にあるかもいまいち把握していなければ、あらゆる臓器、精神、頭脳、等々がどれくらいの容量を持っているのかも測ったことがない。なんだかいきなりある日突然この私という人間の在り方を任されたという感じが否めない。そしてただただ、私と云う人間をイメージで日々演じているのかもしれない。

少しずつで良いので知りたい。私が何でできていて、どうやって動いていて、何に動かされていて、どうしてこんなにしんどくて、何が面白くて、何でバランスを取っていて、なぜそんなにも情緒してしまい、自分でも制御が効かなくなるのか。その疑問は尽きない。

物心ついた時から映像として、私の「内在する器」は現れた。その頃はまだぼんやりであったが自身の中にもう一つ体とは別の容器があり、見たことや感じたことや聞いたこと等をその容器に入れ自身の咀嚼できるタイミングが来るまで一度寝かすということを日常繰り返していた。成長するにつれ、その容器が何か私をとても苦しい思考に陥れる原因のようにも感じられ、違和感を持ちながらも共に生きてきた。徐々にその器をこの目で見てみたい、見ることが出来れば私という人間をもう少し楽にしてやれるのではと思うようになる。そうして、常々私は「内在する器」と銘打って自身が持ち合わせているであろう器を具現化することに勤しむようになるのである。それは多分、何かしらで知るという行為に頼らなければ、私と云う存在を信じてやれる限界に近づいていたのだろう。その内在する器を具現化するにあたって、一番に驚いたことは私のその器は形が定まっていないことだった。 「何か」を受けて、へんげするのだ。

「何か」とは他者からの影響、他者と私の間に存在する環境からの影響である。どんなに言葉や思想や発想が私の腹の底から湧き出たものだと思っても、それは私の外側にあるものから受けた影響というものによって成り立っているのだ。外からの影響を受けた器はその都度形を変容させながら、その物事を咀嚼し、解釈し、私に発信させる。この現象を確信した時、私という人間をもう少しやってみても良いかと思えた。新しい他者・環境に出会う度、私に内在する器は形を変える。このことを何やら他人事として楽しめる気がしたのだ。なぜなら私など無いに等しいからだ。私の体は現象を通過させ、他者や環境との関わりを常に求めて存在しているだけなのだ。私の内側に有る器は「澱」や「脂肪」や「皮膚」といったしがらみや覆うもので何層にもなって私を守っている。その内側から見えている世の中とは確実にぼやけ歪んでいるはずだ。全てが常に私であるという確実な断定の元に行われているのではないのだ。

この作品を纏ってみた他者を外側から見ることで少しでも知りたい。私が持つ自身への疑問と違和感は多くの他者と環境に触れ合えば触れ合うほど、私に内在する器の形を変えていくのだから。それは時には美しく、時には醜くもなる。そして答えが見出せなくなり苦しみはするのだがそんな時に困難ぶっている自分に言ってやりたい。「そんなに頑なにならなくとも明日には誰かに何かに影響を受けてもう今日の私ではないのだから。」と。

『作家を作ってみませんか?』
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国立国際美術館ウェブサイトより「アクティヴィティ•パレット」をご確認ください。
参加ご希望の連絡をいただきましたら水引が届きます。編み方の動画を参照していただき、編めましたら送り返してください。作家の作品の一部に組み込まれて行きます。

国立国際美術館

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